エッセイ-LIFE STYLE-

書画家・夏生嵐彩のプロフィール~どうして書家になった?赤裸々すぎる来歴

こんにちは、夏生です。

教室の沿革「墨サロンを始めたきっかけ」については別記事で詳しく書いているのだけれど、ところでわたしはどんな人?なんで書家になったの?とかを書いていなかったし、よく聞かれることなので、ここで洗いざらい喋ろうと思います。

みんなが期待するようなかっこいい書家像では決してないのだけれど、「こんなへなちょこなヤツでも生きて行けるんだ!」と誰かの希望になったら嬉しいので包み隠さず幼少期からの私を記憶とともに追尾してゆく。

目次

第1章:空想少女~友達ができない子

サンタのプレゼントとして生誕

私には8個も離れた姉と兄とがいて、蝶よ花よ!とずいぶん甘やかされて育った。

それもそのはず。そもそもどうして姉兄とこんなに歳が離れているのかというと姉が小学生の時、サンタさんに「妹が欲しいです」と頼んだからだ。

サンタからのプレゼントなんだからそりゃ大事にするだろう。姉にはリカちゃん人形で遊ぶように持ち歩かれて、兄にはスライムで遊ぶようにもみくちゃにされながら持ち運ばれていた。

おかげで髪の毛はいつも姉の独創的なアレンジで結われていたし、兄の指先で頬っぺたはグニャグニャに柔らかくなった。今でもほっぺはグニャグニャなままだ。年取って頬がたるんだら彼に責任を取ってもらおう。

友だちってどうやって作るんだ…

家族からは愛されて育ったものの、学校に入ると同世代の友人の作り方や遊び方がわからなかった。

小さい時も一人でリカちゃん人形の家に自らが入って(だいぶ体をねじ込んでいる図を想像してほしい)、人形で遊ぶのではなく空想でブツブツ言いながら遊んでいたらしい。そんな子がどうやって友だちを作れるもんかね?

学校の休み時間は男子と走り回ってればいいので不便しなかったが、放課後自分からクラスメイトを誘って遊ぶとか思いつかなかったし、そもそも誘って「何かしたいか?」というと特にやりたいことが無いので誘ったことがない。よって誘われることもめったにない。

特に夏、近所の公園であるお祭りは普通友だちと行くものらしいのだが、誘われたことがないので(そもそもお祭りの日程をみんなはどうやって知るんだろうと思っていた)大抵は家族と行っていた。

しかも私にとって興味があるのは、屋台の方ではなく「盆踊り」の方なので、結局家族とも別行動でお祭りの終わる時間まで2~3時間ひたすら踊り続けていた。

終了時間になって家族と集合すると、おいしそうなお菓子やおもちゃ、ご飯をたくさん持っていて半分羨ましい気持ちになりながら、私の分も買ってくれているので問題はない。なので、、

万が一ともだちに誘われていたとしても、踊れなくてつまらなかったかも知れない…。

しかしお誘いを受けない寂しさというのは常にあった。「誘ってみればいいのに?」とお思いかね?日程を知らないんだってば。笑

クラシックとドラえもん

世の中の小学生はポケモンに熱狂していて、学校の帰りの会に『ポケモン言えるかな?』みたいなタイトルの歌を歌わされていたんだけれど、私はポケモンのアニメもゲームもしていないので終始「・・・?」だった。

みんな嬉しそうに早口な部分を歌ってたけどどうにも興味が湧かず。

斜に構えてたわけではなく、キャラクターは可愛くて隣席の子が「ポケモンパン」のシールをくれるから、自分の下敷きに貼って集めて楽しんでいた。プリンかわいー!イーブイかわいー!それだけで十分。

そんな私がとにかく毎日、放課後にやっていたことと言えば、クラシック音楽…特にショパンピアノ全集のCDをひたすら聴くか、数年分録画されたドラえもんやディズニーのビデオを夕飯までひたすら観ること。

とにかくキラキラした音色のショパンが好きすぎて、練習曲そっちのけで読めもしないショパンの楽譜をねだって、耳コピ&楽譜でそれっぽいのを弾きながら休日は「もう近所迷惑だからやめなさい」と言われるまでピアノにかじりついていたし、何度同じ話を見てもドラえもんやディズニーは飽きなかった。

ドラえもんやピーターパンと空飛ぶ夢や、アラレちゃんやのび太君と学校で遊ぶ夢を毎晩のように見ていて私の夜は大忙し!!だったので、朝学校に行くのは眠くて仕方なかった。(今でもよく見る。)

とは言え、学校が嫌いだったわけでばなく、授業中に発言したり、体育で走り回ったりするのは大好きで、先生たちにとってかなり都合のいい優等生だったと思う。

いや待てよ…(疑)。制度に理不尽なことがあると校長に直談判したりするような子だったので、やっぱりかなり厄介だったかもしれない。実際どう思われていたんだろう…。

そういえば全然関係ない話だが小学校3・4年生の時、やたら校長先生と仲良かった時期があった。休み時間の度に校長室に遊びに行ってお茶を飲みながらおしゃべりしたり、誰もいない体育館の鍵を開けてかくれんぼしたりしていた。

どうしてあんなに毎日遊ぶほど、校長先生と仲良くなったのか全く覚えていないのだけれど、こっそり秘密基地でも作ったような感覚は今も残っている。

不思議で優しい思い出だ。

書道との出会い

いつ書道の話すんねん!と思っていたでしょう。

それくらい私にとっての書道は、かなりさりげない存在だった。

姉と兄が通っていた書道教室に小学校入学前、母と一緒に行ったことがあって、経緯は何だか忘れたが「なっちゃんもやりたーい!」なノリで始めた。

もともと親は書道を習わせるつもりだったから、左利きの私を幼稚園の時から「字だけは右で書こうね!」と直していてくれたのもあり、すんなり始められた。こればかりは親に感謝せずにはいられない。今職業柄、両利きで色々便利な思いをしているのもこのおかげだと思っている。

さて、読者はこう思うだろう。そのまま書道が好きでどんどん得意になって、クラシック音楽以上にのめりこみ、書の道への扉が開かれたものだと。

否。もちろん習字も好きだったが、音楽やダンスが好きなのとほぼ同じくらいのウエイトで習字が好きだったので、何一つ特別感はなかった。好きな習い事のひとつ、ただそれだけ。

他の子よりは得意だったけれど、でもその得意さの度合いも、足が速いとか、勉強ができるとかそういうのと横並びな感じだったので「書道においてのみ、私は特別だZE☆」って感覚もなければ、将来それで食ってくんだ!なんて思うわけもなかった。

第2章:いじめと学校~書という逃げ道

教師「イジメは問題ない」との見解

中学に入ると、朗らかな小学生時代と違い、思春期ならではの不健康な閉塞感と、権力への抵抗からか、みんなが殺伐としていて、何もわからず小学生な気持ちのまま過ごしていた私は、何もしてないのにいじめられた。

そのあたりの詳しい話は別の記事に書いてあるので、そちらを暇なときに読んでもらおう。あまりいい気分になる話ではないから飛ばしてもらって結構。
→中学の思い出『ハゲは勲章』

どうやら、普段も行事ごとでも目立ちすぎていたらしい。

だって文化祭も体育祭も授業も何もかもが楽しいんだもの。(気分はずっと小学3年生)

しかし先生いわく”やっかみ”でいじめられているので(弱い者いじめではないから)問題ないとのご見解で、自分の子どもに「あなたみたいに育ってほしいからとナツキという名前をつけたくらいよ」とか言うもんだから話にならぬ。

いやいや、こちとら理由はともかく円形脱毛症になるほどには困っているんだよねと思ったけれど、先生が解決してくれないから自分で何とかするしかない。

結局直接相手と話して、私にほとんど無関係な恋愛沙汰?…よく理解できない理由でハブかれていたので「もういいや」と思った。知らん。

内申点は3年間しっかりオール5をとっていたので第一志望の高校にすんなり入って清らかで安らかな高校生活を心待ちにしていた。(中学の卒業式はなんと晴れやかな気持ちだったろうか!)

目立たないように努めた高校生活

中学で、目立つとイジメられるということを学習したので、高校では生徒会とか興味がなかったし、体育祭などにも積極的に参加しないようにしていた。

今思えば高校こそパーン!とはじけても良かったのだろうが、トラウマとは怖いものだねぇ。

しかし魔の手はすぐそこに忍び寄っていた…。

高校では大好きなダンスを続けるべく、ダンス部に入部。小2からダンスを習っていたのもあって初めからリーダーシップをとって学年内でも目立っていた。

ん?待てよ……。め、、目立っちゃダメじゃない?(学習能力ゼロ)

そう、結局ここでも女子軍団の中で、女のドンみたいな態度をとっていた子に目を付けられてしまったのである…。くぅ~・・・好きなダンスを楽しんでいただけなのにねぇ。

そんなわけで、何のしがらみもない駅前のダンススクールに通うことにし、部活は早々に辞めた。あたしゃそんなことで悩んで高校生活まで棒に振りたくないのよ!

書道部創設…?

しかし困った…。高校で部活に入ってないっていうのも、なんか「青春!」っぽくない気がして。かと言って他の部活はもうグループができているだろうしなぁ…と躊躇。

そこで高校生・夏生はひらめく!「書道部なら地味そうだし大丈夫じゃね?」と。

我が母校、横浜翠嵐高校は選択授業に音楽・美術・書道の全てから選べるので絶対に書道の先生は居るはずだ!翠嵐バンザーイ!!(ちなみに私は音楽選択だった。)

思い立ったが吉日、職員室に行き「書道部の先生いますか~?入部したいんですけど!」と尋ねると「うち書道部ないよ?」と一蹴される。

夏生「そうなんですかー。じゃ作っといてくださ~い。」

教師「えーあー?わかったー。」

軽い!!軽すぎる!!が、本当にそんな感じで…書道部に入部したのだった。いや創設したのだった。部活ってそんな簡単に作れるものなのね。アニメでよく見る「5人以上集めなきゃ~」と走り回ることなく勝手にできた。

こうして誰からもいじめられる心配もなく、部員一人で優雅な部活動が開始した。ひゃっほーい!1人って最高!!

求めていた「部活」と「青春」とはだいぶ違う気がしてならないのは内緒にしておこう。

ティータイムしてたら全国大会行っちゃった

部活の先生は、”お母さん”みたいな人で「へえ~上手いこと書くねぇ~」とか覗き見しながら特に何を指導するわけでもなくそばにいて「そろそろ休憩したら?」とお茶を入れてくれるので、先生が持ってきてくれたお菓子を食べながらよくティータイムをとっていた。(かの校長先生しかり、私は先生とお茶を飲む運命らしい。)

ある日先生が「好きに色々書いてるのもいいけどこんな大会あるから出してみない?」と資料をもってきた。

全国高等学校総合文化祭。地区予選があり県から代表を選び全国で競うもの。

言ってみればインターハイの文化部バージョンらしい。

が、私はそんなことを全く把握しておらず「うん、やる~」と参加を表明。夏休みやることもないし(いや、受験勉強しろよ)大好きな黄庭堅という書家の古典を全臨(※)することにした。

※古典を全て筆勢なども含めてそっくりに模写すること。

夏休みがはじまり本格的に大会に向けた制作に入る。先生はいつも私より早く書道室に来て、墨すり機に墨を磨らせて、お茶とお菓子を用意して待っている。

毎回社長出勤な私になんの文句もなかったのだろうか…(さすがに集合時間は守っていたはず…)

今考えると勤務時間でもないのに(なんなら顧問でもないのに)書道の先生は私のために部活に来てくれていたのはすごく感謝すべきことだが、当時の私は恩知らずで「先生おはよ~う!!今日も早いね~!」みたいな挨拶してたんじゃないか??と思うと若さとは恐ろしい。

書き始めたら集中しっぱなしの私が全部書き終えたタイミングで、相変わらずお茶が入っているので、お菓子を食べては「上手いねえ~」と眺めるだけの指導をしてくれていた。(もちろんちゃんと講評はしてくれた)

そんなこんなで2人きりで3時間書いてはお茶を飲み、また3時間書いてお茶を飲み、更に3時間書く。という風変りな一日を過ごして私の高2の夏休みは終わる。

先生から突然の電話

そんな充実した時間を過ごしたのも忘れて、学校生活をのんべんだらりと過ごしていたとき、急に先生から電話がかかってきた。

「ねえ!!なんか見たことない賞がついてるよ!あなた全国行っちゃうわよ!」

どうやら会場におもむいた先生が興奮して電話してきたのである。というか県予選?の展示とかあったんだ…先に言ってよ。ていうか私も誘ってよ。

そして何やら受賞式だの高そうな硯だのをもらって、全校生徒の前で「全国行ってきます」みたいな挨拶をして、あれよあれよという間に京都で行われる全国大会へ。

京都大会の思い出も、あるっちゃあるのだけれど長くなるので別の機会に話そう。とにかくいい思い出、良き青春の1ページが作れた。書道部を作ってよかったよかった。

受験勉強。書道という抜け道

さて、何を隠そう、実は進学校に通っていた私。

ということで受験がキツすぎる~!ぎゃは~!

一年生の頃から、コツコツと苦手科目は予備校行ったりしていたのですが、しかし根っからの勉強嫌いでどうにもついていけず、知識が全然足りていなくて高校は授業について行くのでひと苦労。

いやついて行けないので、、、寝てたよね!うん寝るしか手段がなかったのよ私には!

で、受験期を迎えてしまったものだから、毎日必死に勉強しても全く追いつかない。

それでも第一志望が同じ友達と世界史や日本史の問題を出し合ったり、解説読んでもわからない数学の問題を教えてもらったりしている時間は楽しかった。自習室最高。

てんやわんやで迎えたセンター試験。例に漏れず天気は雪。

友人の試験結果は芳しくなく、私も数学で大惨事をおこしてしまったので、浪人するしかない!一緒に来年頑張ろうね!という流れになると思ったら「え?何言ってんの?わたし第一志望受からなくても私立いくよ?」と諫められた…。この!金持ちどもめ!!!

勉強仲間を失った私は、一人で浪人生活を頑張れる気がしないので、現役で行けそうな国立大学をこの瞬間から必死に探す!!!(センター前に滑り止めくらい調べとけよ…)

そして母が『国立大学一覧』みたいな本から目敏く見つけて教えてくれた。

「なっちゃん!東京学芸大学ってとこが書道と他の科目とで2次試験受けられるみたいよ!」

なんですと?!聞いたことない大学だったけどそんなことなら受けてみるしかないっしょ!だってわたくし、全国行ったんだもの!他の高校生と比べても実技の実力は問題ナシってことよね?

母よ!スバラシイ着眼点だ!!!

ということで、書道室に再び向かった。

「先生、学芸大学ってとこの書道受けようと思うんだけれど、どうしたらいいだろうか」

「は?なんで?いつから?それ私の母校だけど!センターおわってからやる勉強量じゃないわよ!もっと前に志望校教えてよ!」と驚かれた。ごめん…でもだって…今知ったばかりの大学なんだもの…。

受験項目は実技と筆記の2項目あり、実技は漢字と仮名それぞれの臨書・創作をすればいいので、肩慣らしに練習するだけで大丈夫そうだった。

問題は筆記。作品をみて作品名や作者について解説をする問題など多岐に渡るのだが、選択科目が音楽だった私は書道の歴史など何も知らず、王羲之や顔真卿という人すら漢文で聞いたことあったようななかったような…くらい知識がゼロ。皆無。

センター後の1か月間はひたすら中国と日本の書道史を丸暗記する日々。他にも小論文や国語など色々受験科目はあったが、過去問を見て出来そうだったから放置し、書道史をほぼ丸暗記するだけの日々。中国人の名前が覚えられん!っていうか画数が多すぎて書けん!

当日も、筆記試験の直前まで本を読みあさり新しい知識を入れ続けた。なんと直前に見たのが2個も出て天はつくづく私の味方だと思った。直前に見たものを文章ごと丸暗記出来ている自分のことも、この時ばかりはさすがにすごいと思った。

そんなわけでなんとか友達と同様に現役で大学へ進学することに成功したのである。

書道はいつも私がピンチで行き場のない時に救ってくれる。

第3章:飽き性の本領発揮~会社を3ヶ月で辞める

吾は何故、字を書くのか。

大学に入学したはいいが、あまりにも書く授業が少なすぎて入学早々なんだか萎えてしまった。学術的に書道を学ぶのは面白かったし今になって役に立っているが…しかし練習していて、ふと自分に真理を問いかけてしまった。

なんで私、字ばっかり書いてんだろう?

その疑問に答えるだけの確固たるものがその時代には何もなく(だって受かったから入学しただけなんだもの)気づけは関連する何かを身につけようと水墨画を習い始めた。墨だし?

結構なスピード出世で、めきめき実力をつけていった。が、ある時また当たり前の問いにぶつかる。

水墨画って、白黒ばっかりだな…(つまらぬ)

そして水彩画を習うことにした。(カラフル素敵~!)

って!!飽き性にもほどがあるだろ!!

しかしどれも辞めたいとは思わず、むしろお互いに飽きそうな部分を補完し合ってくれていた。こんな感じで三角食べみたいに技術を広げていき、妙にどれもこれもそれなりに上手くなった。

しかし、進路はどうしよう。周りの子のように教員になろうとも思わないし、どうしたものかとぼんやり明け暮れていた。

何かを作ることが好きなのだからデザイン関係の仕事についたら良かろう!と就職活動を行うが、ポートフォリオ?なにそれ美味しいの?な状態。

就活はそこそこに切り上げ、これからはきっとデジタルだ!みたいなテキトーな理由でイラストの専門学校に進学する。

英語コンプレックスと破天荒な退社劇

専門学校は楽しかった。みんなよりだいぶお姉さんの状態で入学するわけだし、アニオタな子たちと話が合うとは思えなかったのだが、なぜか私の出席番号のまわりには、東工大、東北大などの高学歴な大卒組が多く、謎に年上ユニットが組まれていた。

彼らから聞くアニメ論はすごく楽しくて、いつの間にやら私もアニメの世界へ引き込まれてゆく。

進路は?というと「イラストレーターになりたいな~」と思っていたけれど、調べてみるとデザイン事務所から独立している人がほとんどで困った。いきなりイラストレーターってのは無理なのか?(今みたいに学生時代からインスタでフォロワー集めて…みたいなことができてたら困らなかったかもしれない)

結局就活はIT教育関係の会社に内定を決め、webデザインとかができる部署が楽しみで、残りの学園生活を悠々自適に過ごそうと思っていた矢先。自身に「学生生活で思い残したことは何かないか?」と問うてみた。すると、

留学行きたい!英語しゃべれるようになりたい!と強く思った。

というのも、これまで一度も話に登場していなかった私の父。複雑な家庭なのか?と思っていた人もいるかもしれない。全くそんなことではなく、単に物理的に、日本に登場していなかったから話に出てこなかっただけだ。

海外赴任の多い父は年に1~2度、数週間日本にいるだけですぐ海外へ帰る。わたしにしてみりゃ、彼は「数週間来日して外国へ帰国」というイメージ。

全然関係ない話をするが、よく父親が仕事で忙しく授業参観や誕生日に来ない、子どもは悲しみ、妻は怒る。みたいなドラマの描写があるが全く理解できなかった。

え?パパって日本にいることの方がめずらしくない?って家庭だったもんで、誕生日にいないのなんて当然だし、まして参観日だけのために仕事放り出して帰国されても困る。

そんなことより、見たこともない外国の玩具やお菓子、色彩豊かな飾り物が家にあるのが誇らしかったし、本でしか知らないラクダとかが実際にいる世界にパパがいるなんて!と想像すると胸が熱くなった。

なので、話を戻すと、何となく「海外への憧れ」が身近だったのと、姉が高校時代に父の赴任先へ留学していたというのもあって、「私だけが英語苦手!コンプレックス!」って思っていた。

就職も決まったし、カナダに飛んだ。

人生で一番勉強した

留学すると、毎日のようにパーティーがあり、友達と観光できるので凄く楽しいのだが、年月はあっという間に過ぎる。

受験の時からリスニングが苦手だったのと、自分で意思を伝えようと思った時にすぐに口が動かないことに困っていたので、英単語などのおさらいはやりつつ、独り言を常に英語で言って、言い方がわからなかったらすぐに調べ、応用できそうなものはメモをしていた。

リスニングは学校に行っていると授業はすべて英語だし、レベル別にクラスを分けてくれるので、勝手に向上していった。現地のチカラすばらしい!

現地で恋人を作ると早いというので、恋人みたいなのも作った。いや、だからってわけでもないけれど、普通に仲良くなって彼の実家に遊びに行ったりもしていた。

パーティーは楽しいから行くけれど、どんなに夜遅くまで遊んでいても絶対に勉強をしてから寝ていたし、朝も早くから予習と復習をしてから学校へ行っていた。こんな真面目な語学留学生あんまりいないと思う。

おかげで、あんなに英語が苦手でどうやって外国の人としゃべったらいいのか見当もつかなかった私が、もちろんネイティブとは到底言えないまでも、怖くてしゃべれないとか、何言ってるか全然聴き取れないとかで泣き寝入りしちゃうことはなくなった。

何より英語が好きになったし、これからもいつからでも頑張ればその分だけ語学は身につくんだと自信が持てた。

英語アレルギー勢にしては最大限に留学を活用できたと確信している。

しかし!海を渡って帰ってきた私。

気が大きくなって、就職にすら執着しなくなってしまった。

母に「入社、したくないんだよね」と伝えたら「いいんじゃない?そんなに行きたかった会社でもないし」と言ってくれたので内定先に早速伝えたら人事の人から大慌てで呼び出された。そりゃそうか。

入ってみたら面白いってこともあるかもよ?と説得されて「それもそうか」と入社してみた。

しかし入社後、やりたかったwebデザインの部署は早々に解体?されて、3つ上の先輩に新人のスーツの色指定をされたのが「いや中学生の部活かよ!笑」とバカバカしくなって3ヶ月で退社してしまう。

(名刺交換やビジネスメールの書き方など社会人の初歩中の初歩を教えて下さった上司の皆さま、ご指導ありがとうございました。今でも役に立っております。その頃の上司とは今でも飲みに行くし個展にも来てくれる。)

独立へフォーカス

結局わたしは、組織にとことん向かないのかもしれない。そういう星の下に生まれたと思うしかございませんな。

ならばやるべきことはただひとつ。ひとりで仕事するために何かしらコネクションを作ること!

思いついたのは出版関係に勤めて編集さんとのつながりを持ち仕事をもらうこと。作品を送っても見てもらえない現状は把握していたので、内部に入ってしまえ!という考えである。

そして募集をしていた大手の出版社に勤めることとなる。

挿絵作家?パフォーマー?書という軸

日常の業務はこなしつつ、噂を聞きつけた編集者さんたちが、書道のコラム的な扉絵や、エッセイ本などの挿絵を頼んできてくれるように。

1年も経つと、絵本の挿絵を依頼してくれたりして、狙い通り、持ち込みでイラストを見せていたら採用されなかったような仕事もちゃっかりやっていた。

しかし、もともと実用関係の本が多い出版社。絵の依頼が頻繁にあるわけではない。長々と会社に勤めていてもこの先がないかなと、2年ほど勤めて独立することに。

さて、何件か絵の仕事はあったものの、有名作家でもない私に依頼が殺到するはずがないので、今後のために商談会のようなイベントに参加してみた。

前述していないが、学生の頃から水墨画の師匠の下でパフォーマンスの仕事はしていて、有名な企業の記念式典などで一緒に書かせてもらったりしていた。なのでライブペイントの売込みも兼ねていた。

新人のイラストレーターのブースなのに、パフォーマンスの映像が流れ、絵本の色校があり、壁には書道が飾ってある、謎すぎた私のテーブルには人だかりができていた。

そのおかげもあって、退職後は老舗ホテルでのパフォーマンスなど、大きな仕事が舞い込んできたり、その出先でまた大きな襖絵を依頼されたりで、仕事が別の仕事を生み、人が人につないでくれるようなありがたい縁に恵まれ続けた。

こうしてイラストと書道と水墨画をごちゃまぜミックス状態で、何とかフリーランスとして生活するようになる。

しかし、やればやるほど人と出会い、人と出会うほど質問されるのだ。

「夏生さんは結局何者なの?何がしたいの?どれがメインなの?」と。

そんなものは何だっていいじゃないか!と強く思ったし、なんで人はどれがメインか知りたいんだろうっていつも疑問だった。その区切り必要?正直、書道と水墨画の差なんて誤差じゃよ。

今となっては何をやってるんだか正体不明なYoutuberとか、自分の発信力を使ってなんでもやるみたいな「インフルエンサー」っていう言い方が定着しているけれど、

当時は職業は「わたし」ですっていうのが、まるで理解してもらえなくて、そのたびに「全部が私なんです」っていうのをどうにかこうにか説明していた。

その時もやはり、”言い訳”になってくれたのは書で、メインかどうかはさておきすべてのルーツは書にあります!!

的なことを言うとおじさんたちは、なんとなく納得してくれた。むしろ、すべてのルーツはどっちかというとドラえもんかショパンなのでは?と、読者は思うだろう。正解だよ諸君。

ただ、私が困った時にプランBを提示してくれて、行き止まりから救ってくれ、人生を下支えしてくれていたのは、間違いなくいつでも書だった。

第4章:ハンパ者の矜持~優しい光を縫う

気づいたら書家と呼ばれていた

結局「なんで書道家になろうと思ったの?」というお題目に答えていないのでここでまとめておこう。ここまで読んでくれた人ならわかるように…

なろうと思ってなってないんだよねぇ(汗)

そろそろ春ですね、社会人ですね、何して生きていく?というその頃に、手持ちのカードで一番まともなのが書道だった。

気づいたらなってたんですよ。というか気づいたら呼ばれていたんですよ!「書家」って。へぇ~私って書家なんだ?って。ご本人もびっくり。

夢は与えられないけれど、君の呼吸をまろやかにしてあげる。

「墨に魅了された」「挫折の中で書だけが唯一夢中になれた」「書の魅力をみんなに知ってほしい」など、書道家のプロフィールを読むとまっすぐにキラキラしたことがたくさん書いてある。

しかし今から書くようなことをプロフィールに書いている書家なんていない。

もちろん書は魅力的。だけどこの世に魅力的なもののなんと多いことか!私はきらめく森羅万象の中から推しメンを書道だけに絞るなんてとてもできない。だからあえて正直に言う。

字も書も好きだけれど、私は別に書じゃなくてもいい。「私、ここにいるよ」って言える何かがあればきっとそれでよかった。

「○○一筋!」ってすごくカッコイイし憧れる。たった一つの好きなこと、夢中になれることがある人ってそれだけでギフトだと思う。そういうのがある人はとことんやってほしい。

そんなもの、私には何もないから。

全部好き。けど全部同じくらいに「そこそこ好き」。私にとって書道と卵焼きどっちが好きかと聞かれたら卵焼きと答えるかもしれない。

夢中になれるものがないというコンプレックス。だからそれが大好きで仕方ないという人よりは極められずに中途半端になってしまうというコンプレックス。

だけどそんな作家がいたらダメかな。
甘っちょろい人間ぽさを出したらダメかな。

そんな風に揺れ動く私の中から生まれる作品は、いつも本当に危うくて、息をすればこぼれ落ちそうなほど脆くて、”それでも「存在していたい」と叫ぶ強さがある”と、いつか人に評してもらえるように。

少しずつ、少しずつ、足跡をつけていきたい。

自分の脆さの中から、ほんのひと匙のやさしさを掬い出して、誰かの心のトゲを少しだけ丸くできるような

そんな人に私はなりたい。

優しさのパッチワーク

教室に通う生徒も、作品のファンになってくれる人も、そもそも私のことを好きでいてくれている人がとても多い。うれしいうれしい泣いちゃう。

制作仕事の合間にスタートした教室も、今や100人を超えている。わーびっくり。

神楽坂がとっても通いやすい立地だから来てるんだろうな~って思っていたんだけど、どうも教え方が分かりやすいからとか話し方が好きだからとか言ってくれる…。はや~…照れちゃう。

私の教え方が分かりやすいと仮定するならだけれど、その人のことを分かろうとしてるからなのかなと。

理解しようという気持ちが生徒に伝わって、生徒が理解したいって気持ちが私にも伝わってくる。そうした優しさのパッチワークのようなものがアトリエに広がっているから、心地のいい空間になっているんだろうと、自画自賛ですがそんな風に感じるのです。

私は自分が中途半端であることを自覚しながら、それでもそれを卑下せずに前へ進もうとあがいた結果、生徒のみんなよりほんの一歩だけ前を行く先生であれたら良いのかなと思っている。

背中を見せられるような立派な師匠にはなれないけれど、隣で手をつないで引っぱってあげる。

これからも、暖かい優しさの編み物を、みんなと一緒に作っていきたい。

おしまい。

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